卒業

   久しぶりに訪れた教室は笑顔で満たされていた。この教室に全員がそろうのはいつ以来だろう。懐かしさすら覚えるその面々に私の顔も思わず綻ぶ。「久しぶり」「元気だった?」を何度も繰り返した後はいつものくだらない話。そうやって笑い合うのも懐かしくてやたらテンションが上がっているのを自覚する。友人たちも皆一様にテンション高めだ。
そうしているうちに担任が現れ、着席を促される。いつもラフな格好ばかりの担任も、今日ばかりは身奇麗なスーツに身を固めている。

「みんな卒業おめでとう。天気にも恵まれ、一人の欠席者もなくこの日を迎えられたことを嬉しく思います。それではこれから入場するから、廊下に並んで」

にこやかに短く祝辞を述べると、クラス全員に指示を出す。それに従い、皆ぞろぞろと廊下に出て行く。他のクラスも同様の指示がなされたようで、廊下は人で溢れていた。そんな中、友人と会話を交わしながら窓の外を見る。担任の言うとおり、本当に天気が良い。日向ぼっこでもしたらさぞ気持ちがいいことだろう。

しかし残念ながら、これから行われるのは卒業式という名のお偉いさんの演説会なのだ。友人たちと再会できるのは嬉しいが、この形式ばった式は好きではない。いっそ卒業証書と卒業アルバムをもらうだけにしたらいいのに、というのはいささか趣がなさ過ぎるだろうか。

そう思いはしても、どうにもならないので大人しく式に参加する。案の定つまらない。けれど、卒業式の雰囲気というものはどうやら色々と思い返させるらしく、私は図書室での藤本さんの姿を思い浮かべていた。
机上に向けられた真剣な眼差し。私に向けられた透明感のある笑顔。そして最後に見た横顔につたっていた涙の跡。

藤本さんは今日、ここに来ているのだろうか。やや伸び上がって、藤本さんのクラスが座っている方角に首を巡らす。けれど、たくさんの人に阻まれてその姿は見つけられない。あきらめて神妙な顔をして壇上に視線を向けておく。

藤本さんとは彼女の入試前日に図書室で別れて以来会っていない。彼女のいない図書室はまるで別の空間のように様変わりしてしまい、以前のように集中することはできなかった。彼女の存在の大きさが身に沁みた。それでも入試前日まで通い続けたのは、藤本さんとの繋がりをわずかでも残していたかったからなのかもしれない。私と藤本さんを繋ぐものはそれだけだったから。

私がなんとか無事に合格通知を手にすることができたのは、きっと藤本さんのおかげだ。彼女の結果はどうだっただろう。何の繋がりもない私にそれを確認する手立てはなく、連絡先すら聞いていなかったことが悔やまれる。

「卒業生、退場」

ぼんやりとしている間にも式は滞りなく進み、退場を告げられる。クラスごとに立ち上がり、荘厳な音楽と共に会場を後にしていく。会場の真ん中に設けられた通路を知っている顔も知らない顔も通っていく。けだるそうな表情の者もいれば、目元を濡らしている者もいる。私は自分の番が来るまでそれを眺めていた。
そこに、藤本さんの姿が現れる。どくりと脈打つ。久しぶりに見た彼女は穏やかに前を見つめている。その姿が近づくたびに、私の鼓動は早くなる。

穏やかに前を歩く生徒の背中を見つめていたその視線が、ゆっくりと横に移動する。どくり。ゆっくりと、こちらに。どくり、どくり。穏やかな視線は私のそれとぶつかる。そして、口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
それはほんのわずかな時間だったかもしれない。けれど確かに私に向けられたものだった。手を振りたいのはスカートを握り締めることでこらえられた。けれど、緩む口元はどうにもならず、藤本さんが通り過ぎた後はなるべく下を向いて誤魔化した。

その様子は傍から見れば泣いているように思えたようで、教室に戻ってから友人にからかわれたのには閉口した。その友人たちと卒業アルバムにメッセージを書き合ったり、写真を撮ったり、残りわずかとなった時間を潰していく。クラスの異なる友人の教室に出向いたりもしたけれど、藤本さんの教室には行けなかった。
周りから掛けられる声にいちいち笑顔を振りまいているうちに、アルバムのメッセージ欄は一杯になりはした。けれど、そこに藤本さんの文字はない。

最後くらい別の場所で話しかけてみてもいいだろうとも思う。けれど、やはり私は藤本さんの友人の中では浮いてしまう気がする。きっとその後、彼女は友人たちに何故と問われるだろう。そして図書室での私たちの繋がりを話す。それは、なんとなく、嫌だった。

代わりに向かったのは図書室だった。もしかしたら鍵が掛けられているかもしれなかったけれど、最後にもう一度、あの場所を記憶に刻み込んでおきたかったのだ。

ありがたいことに扉は少し力を入れると容易に開いた。
当たり前のことだが、こんな日に図書室を利用する生徒はいない。からっぽの室内は本と、埃と、太陽の匂いがした。

静かに扉を閉めると、いつもの席に向かう。そこに座って、からっぽの藤本さんの席を見る。日当たりのいい窓際の席はとても気持ちがよさそうだ。
目を閉じてそこに座っていた藤本さんを思い浮かべてみる。うん。まだ大丈夫だ。けれど瞼を開けて写るのは無人の席。それがあまりに寂しくて、席を移ることにした。移る先はいつも見ていた席。

座ってみると太陽に温められた椅子は、まるで今まで誰かが座っていたかのように暖かかった。そしてからっぽの自分の席を見る代わりに窓の外を眺めた。ちらほらと帰宅する生徒の姿が見える。藤本さんはもう帰ってしまっただろうか。
それを確かめることも、確かめたところでどうすることもできない自分が嫌になって、机の上に突っ伏した。机も暖かく心地良い。そして気持ちいいほど青い空を見る。青い空にわずかに薄く刷毛で刷いたような雲が浮かんでいた。

「いい天気だなぁ」

やはり、もう一度会いたかった。会って話したかった。どんな話でもいい。あの涼しげで透き通る声を聞きたかった。ほんの一瞬目が合っただけで満足できるわけがない。それに、藤本さんと私の繋がりがあったことを示すものは何もない。私に残されているのはここでの記憶だけだ。それはあまりにも心許なかった。

私はいつまで覚えていられるだろうか。高校の図書室で共に競い合い、励まし合い、惹かれ合った彼女のことを。その姿を。笑顔を。声を。想いを。

いくらお調子者で忘れっぽい自分でも、ここにいる間くらいは覚えていられるはずだ。幸いにもこの席は日当たりが良いから、いくらでも居られそうだ。空はあまりに青くて、目が痛くなる。だから机の上に組んだ腕に顔を押し付けた。そうやって視界を覆って、何度も何度も藤本さんを思い描いた。

そんなとき。

扉が開く音がして、それから──涼しげで、透き通った声が聞こえた。

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