再会

 巷で節電節電とうるさく取り上げられているせいだろうか、水族館の中は快適というには少しばかり温度が高い気がした。夏休みということもあって人が多いせいもあるかもしれない。あれこれ見て楽しんではいたけれど、せっかく暑くない場所を選んだのにという気持ちもなくはなかった。だからだろう。他よりもひんやりとした空気が漂うその展示室に足を踏み入れた瞬間に、心地良さから嘆息が漏れてしまった。

「あ、ペンギンだ。可愛い」

 まるで可愛げのない嘆息を漏らしている私とは対照的な感嘆の声。その声の主である関口さんは、ほんの少しだけ足を早めて、照明の落とされた薄暗い部屋を進み、ガラス面へと近づいて行く。壁一面に広がるガラスを隔てた向こう側では煌々と明かりが灯されていて、それが薄暗いこちら側をも照らしていた。ガラスの半分くらいまで水を湛えているからか、何もかもがほんのりと青い。数える気も起らない多数のペンギンは岩の上に佇んでいたり、よたよたと歩いていたり、はたまた水中を飛ぶように泳いでいたりした。

「ねえ、なんでみんなおんなじ方向を向いてんのかな」

 一歩分遅れて隣に並んだ私に、面白いものを見つけたと言わんばかりの笑い声が問いかける。言われてみれば、確かに岩の上にいるペンギンは皆同じ方向に嘴を向けていた。それがなんだか可笑しくて、「本当だ」と相槌を打っているうちから、ふふと笑いが漏れた。

「なんでだろう。光の加減とか?」
「そうなの?」
「知らないけど。それかペンギンにしか見えない、凄く気になるものが向こうにあるのかも」
「何それ」

 当てずっぽうの理由を口にしては、楽しそうな笑い声に耳をくすぐられる。そうしながら、すぐそばにある説明書きに目を落とす。いくつかのペンギンの写真と、種名や特徴などが記されていたが、私たちが求めている答えは見つけ出せなかった。その代わりに寒いイメージを抱かせる分布地域の表記が目に留まった。

「この中って寒いのかな」

 湧き出た疑問をそのまま口にして、目の前のガラスに触れてみる。少し遅れて隣から伸びた手も私の手の横に並ぶ。ガラスは確かにひんやりとはしているけれど、それは無機物特有の冷たさにすぎないような気がした。意見を求めようと隣を見れば、同じく意見を求めるような視線がこちらに向けられた。途端に二人揃って笑ってしまう。

「よくわからないね」
「このガラス、分厚そうだもんね」

 そう言う関口さんがガラスを軽くノックすると、いかにも重厚な音がした。よく考えれば、ガラスには結露の一粒もついてはいないのだから、そんな温度差があったとしても、伝わっているわけはなかった。

「この部屋、涼しいから、ガラスの向こう側から冷気が伝わってるのかと思ったのに、違ったみたい」
「あ、そういえば涼しいよね」
「ね、少しここで涼んでようか。そこに座るところもあるし」

 水槽の反対側を目で示す。込み合った館内を人の列に急かされるようにして廻っていたから、ゆっくりしたい気分だった。遅れて関口さんが私の視線を追う気配。水槽が明るい分暗さが強調されたそこには、いくつもの座席が何列か階段状に並んでいる。座席数の割には利用者は少なく、がらんとしていた。

「うん、そうしよう」

 そんな返事が聞こえた頃には、私の足は既にそちらへと向かっていた。階段をとんとんと上がって、後ろから二列目、列の中央付近に腰を下ろす。すぐに隣に関口さんが座って、二人で水槽を眺めた。ペンギンが一羽、水中に飛び込んで、展示室に小学生の団体がなだれ込んできた。子どもたちはペンギンを見てひとしきり騒いでから次の展示に向かって走って行く。

「夏休みを満喫してるなあ」

 走り去っていく彼らを微笑ましく見送りながら呟くと、楽しそうだよねえなんて言葉が返ってくる。彼らがみんな行ってしまうと、関口さんの興味は私に向けられた。膝の上で手を組んで、くるりとこちらに振り返る。

「藤本さんはこっち来てからどこか行った?」
「墓参りとか、親戚の家に顔出したりっていうのに付き合わされちゃったからね。高校の時の友達と遊んだくらいかなあ。カラオケ行ったのと、映画観に行ったのと。それくらい」
「ふうん。友達って野口さんたち? みんな地元なの?」
「うん、そう。何人かは県外の大学だけど、帰省してたからいつものメンバーが勢揃いだったよ」

 話しながらその時のことを思い浮かべる。懐かしい面々、楽しいひととき、そして――少しの違和感。

「みんな少しずつ変わっててさ、前と同じようにはしゃいではいるんだけど、なんかこう、少し違って感じてね。なんか、高校の時とは違うんだなあと実感したというか。楽しいことは楽しかったんだけど、ね」

 誰がというのではない。皆ほんの僅かずつ変わっていて、おそらくは私自身も変わっていて、微妙な変化は人数分だけ掛け合わされて、その分大きく距離が開いたように感じられたのだ。パズルはほんの僅かな誤差で組み合わさらなくなる。そういうことだ。そういう違和感を覚えてしまうことを一番恐れていた相手はというと――ふうん、と呑気に相槌を打っている。

「私、藤本さんたちがはしゃいでるイメージが湧かないんだけど」

 おまけに出てきた台詞がそれだったから、しんみりしていたのも吹き飛んで、笑ってしまった。

「私たちだって私たちなりにはしゃぐこともあったんです。関口さんたちとははしゃぎ方が違うかもしれないけど」
「すみませんでしたね、うるさくって!」

 ふいと顔を背けての不貞腐れた言い様が可笑しくて、くすくす笑って顔を覗き込めば、少し口を尖らせながらも綻んだ想像通りの表情があった。

「うるさいだなんて言ってないよ? 楽しそうでいいなあと思ってただけだよ。さっきの小学生たちに対して思ったみたいに」
「うちら、小学生と同じレベルなの?!」
「あはは。まあ、それは冗談だけど」
「どうだかなあ……」

 疑いのまなざしを向けて関口さんは苦笑いする。その顔が記憶の片隅にある表情と重なった気がした。そうだ。初めて話しかけたときにもこんなことを話した。一年近くも前と話していることが変わらないことが余計に可笑しくて、口元を押さえて小さく笑っていた。すると今までよりトーンを落とした声に藤本さんさ――と呼びかけられた。

「もしかして今も感じたりしてるの? その、違和感? とかそういう感じの」

 笑うのをやめて関口さんを横目に見ると、青く照らされた指が、以前よりも長くなった髪の先をくるくるといじっていた。薄く色づいた口元には薄い笑みが貼りついている。髪も伸びて、お化粧もするようになっていたけれど、私にとって関口さんはやはり関口さんだった。

「ないよ」

 問いに短くはっきりと答えると――そう? とアイメイクで可愛らしさを増した目がこちらを窺ってきた。それをなるべく真っ直ぐに見つめて――うん、と微笑み返す。

「関口さんは?」

 問い返すと、見つめていた目はすいと逃げて行ってしまう。

「私はそもそも、そういうこと考えたこともなかったので」

 それは、ない――ということだろうか。わかり辛いけれど、たぶんそうだ。だって髪の間から覗く耳が青い光の中でも僅かに赤く見える。

「それならよかった」
「うん」

 ほんのりと赤い耳朶には可愛らしいピアスが小さく揺れていて、そこに口づけたい衝動に駆られる。なんとかそれを抑えて、また水槽を眩しく見やれば、常に入れ替わる人だかりの向こうに二羽のペンギンが互いに毛づくろいをしあっているところが見えた。

「そういえば、手紙にメールアドレス書いたときにね」
「うん?」
「関口さんがくれるのはメールじゃなくて手紙かもしれないと思ってた」

 言い終わるより早く、隣からはううっと小さく唸る声が聞こえた。手紙の方がいいと言った時のことを思い出しているのかもしれない。少し顔を背けてきまり悪そうにしている様子に、思わず口元が緩んでしまう。

「だって一度はアドレス交換、拒まれてるし。どういう心境の変化があったんですか?」
「心境の変化とかじゃないよ。元々知りたくなかったわけじゃないし、それに……」

 そこで言葉を切った関口さんは、居住まいを正してごほんと咳払いをする。さっきまで見えていた耳はすっかり髪に隠れてしまったけれど、やっぱり赤いんじゃないかと期待した。

「それに藤本さんのアドレス知っちゃったら、メールしたくなるに決まってるじゃない。それだけだよ」
「それだけ、ですか」
「そう、それだけのことです」

 ひた向きな好意は当然のこととしてしまいたいらしい関口さんが確認事項を繰り返す。とくりと広がる胸中の熱を感じていると、膝の横に置いていた私の手のすぐそばに何かが落ちた気配がした。気になって見てみれば、それは隣に座る関口さんの手で、座席の上で隣り合う私と関口さんの手は、触れそうでいて触れていなかった。新たに落ちてきた方の手は、青い影の中で座席を握っていて、どうしてその手は私の手に触れていないのかと不思議だった。

 ――ねえ。

 聞こえてきたのは見つめていたその手の持ち主の声で、慌てて視線を上げると関口さんはまだ水槽を眺めたままだった。

「向こうに戻るの、明後日だったっけ?」
「うん」
「なんか戻るの早くない? 夏休み終わるのまだまだ先でしょ?」
「うん、そうなんだけど、バイト休み続けるの、悪い気がしちゃってさ。シフト入れちゃったんだよね。それにこっちの私の部屋には何にもないから、時間もてあましちゃうだろうと思ってたから」

 帰省前に色々と早めに戻る理由を準備してはいたけれど、それは全て自分や関口さんの心変わりを感じてしまった時の事を想定して作られた、いわば逃げ道のようなものだった。関口さんとの思い出が刻まれた場所から早めに離れられるようにという後ろ向きな作戦だ。メールやたまにする電話では以前と変わらずに感じられていたけれど、開き直ったつもりでいてもやはり、実際に会って違和感を覚えてしまうことが怖かった。それもすべては無用のものだったと今となっては思うけれど。

 ふうん――という相槌の後、関口さんは口をつぐんだ。それはほんの数秒、いやもっと少ないかもしれない。僅かな沈黙の間もその視線はやはり水槽に向けられたままで、私はそれを横目に見ていた。

「そんなに暇だったら、私を誘ってくれればいいのに」

 沈黙を破ったのはそんな言葉で、言ってからひょいと顔を覗き込んできた関口さんは――藤本さんのお召しとあらば、喜んで参上いたしますよ? とおどけて見せる。その道化じみたしたり顔に思わず笑みがこぼれたけれど、それは先に出てしまった神妙な声色を誤魔化そうとしているようでもあった。

「それじゃあ次に帰ってくるときはそうする。覚悟しておいてね」
「え、あ、やっぱりほどほどでお願いします」

 関口さんの冗句に付き合って意味ありげに目配せしてみせれば、途端、したり顔が勢いを失ってしまう。あっという間に前言撤回するその様子があまりに可笑しくて、必死に声を抑えて笑った。

「わかった。じゃあ、ほどほどで」

 やっとのことで笑う合間にそう言うと――うん、ほどほどで、と繰り返した関口さんは、また水槽を眺めはじめた。ペンギンたちに注がれた視線はこちらに向けられる気配はなく、だからこっそりと二人の隙間に視線を落とした。青い影の中で私のものでない方の手は、もぞもぞと指で座面を引っ掻いていた。

 その手がいとおしくてたまらない。その手の持ち主がいとおしくてたまらない。その手との隙間を埋めてしまいたくてたまらない。

 いてもたってもたまらずに、とうとうそおっとその手に触れてみた。ほっそりとした手の甲に、ひたりと私の手のひらを重ねてみる。しっとりとした柔らかな肌と、それに包まれた関節や筋が私の手の中に収まる。もぞもぞと落ち着きのなかった手はその瞬間に動きを止めて、しばらくのちにゆっくりと向きを変え始める。私の手の中でゆっくりゆっくりと回転し、やがて手のひら同士が重なり合う。手の甲よりも柔らかいその部位はぴたりと吸い付くように互いを受け入れる。関口さんの手のひらは相も変わらず温かく柔らかい。その感触を更に求めるように、指と指は絡まっていき、最後には一番収まりのいい形に落ち着く。

 そうすると関口さんの体温がしかと伝わり、またしても私はたまらなくなる。水槽から目を離し、今や自分の膝のあたりを眺め続けている関口さんの、その赤い耳にたまらなくなる。

 ――ああ、やっぱり。私は、

「やっぱり――」

 思っていたことが口を突く。一旦言葉を切ったものの、それを言ってはいけない理由は何一つなかった。

「やっぱり、私、関口さんが好きだよ」

 ピアスの揺れる赤い耳に向けてそう呟くと、私の手のひらを寄せようとする指の力がきゅうと増した。うん――と頷いた彼女はゆっくりと首を巡らし、握り合った手を見つめ、そしてついには私に真っ直ぐな視線をよこした。

「私も、やっぱり藤本さんが好きだよ」

 真っ赤な、けれど穏やかな顔で関口さんははっきりと告げてくれた。キスの一つでもしてしまいたかった。けれど展示室内には相変わらず人の出入りが絶えなくて、ほんの一瞬、細い肩に額を寄せるのが精一杯だった。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。いつだか嗅いだものと変わらない香りだ。顔を上げれば、まだそこにあった関口さんの視線とぶつかって、二人でふふと笑い合う。そうしてまた二人して、ペンギンたちが佇んだり、歩いたり、毛づくろいしたり、泳いだりしているのを眺めた。明日――緊張を帯びた声で関口さんが呟いた。

「明日も会えたりしませんか?」

 こんなときに突然敬語になってしまう彼女が可笑しくて、いとおしい。

「明日も会えたりしますよ」

 自らのの言葉をなぞった返答に関口さんはふふと笑う。

「どこに行く?」
「私はどこでもいいよ」
「うわぁ、無責任な答え」

 呆れ声で笑った後は思案に暮れる。私はその様子を無責任に眺めていた。

 私たちがその次に会える日がいつになるかはわからない。そのときに今と同じ気持ちでいるかもわからない。それでもまだしばらくは、この人をいとおしく想う気持ちは変わらずにいられる気がするから、離れている間も思い出せるように、私は今手の中にあるこの温もりをしっかりと記憶に刻んでおこうと決めた。そしてこれからも私の中の関口さんの記憶を一つずつ増やしていくのだ。ああ、それはなんと幸福なことだろう。

 幸福感に胸を躍らせて、握った手にきゅっと力を込めれば、同じ強さで握り返された。そうしてまた一つ、幸福な記憶が刻まれたのだった。

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