高揚

「「それじゃ、お疲れ様でした」」

声をそろえて店長に挨拶をすると、店を後にする。空はすっかり暗くなっているとはいえ、街は煌々と光を灯し、人通りも途絶えることはない。その中を私と鳥居さんは肩を並べて歩いた。

「いやぁ、今日はお客さん多かったね」
「本当ですね。時間が過ぎるのは早いけど、その後の疲労感が凄いです」
「そうそう」

アルバイト先で一緒になった鳥居さんは、偶然にも同じ大学の先輩だった。仕事のことだけでなく、学校のこともあれこれと教えてくれ、とても良くしてもらっている。

「そういや、こないだの野菜。ようやくなくなったよ」
「あれだけの量、よく食べきりましたね」
「いろんな人に押し付けたからね」

先日は実家から大量に野菜が送られてきたからと、野菜だらけの食事会に呼んでくれもした。

「じゃ、ここで。またね」
「はい。お疲れ様でした」

手を振り、鳥居さんと別れる。

新しい学校生活が始まり、アルバイトを始め、新しい環境の中で新しい人間関係を築き、それに慣れてきてもいる。新しくできた友人たちの中には、そんな新しい環境の中で新しい想い人ができたという人もいる。

関口さんはどうだろうか。

昨日、関口さんから手紙が届いた。関口さんからの手紙は、これで二通目だ。一通目が届いたのは、私が引っ越してすぐのことだった。それからどれぐらいぶりだろうか。今日の日付を思い出し、計算してみると、ふた月ほど経っていた。

前回の手紙が届いた頃には、私は新たな生活への期待と、それ以上の不安でいっぱいいっぱいだった。返事を書こうにも、思いつく言葉は関口さんを困らせてしまいそうなものばかりで、そんな言葉を避けていくうちに、結局酷くそっけない内容になってしまっていたようにも思う。

あれからふた月──関口さんはまた手紙をくれた。まだ私を気にかけていてくれた。それだけで、今日一日色々な人に「機嫌がいいね」と言われるほどには、私は浮かれている。

信号待ちついでに空を見上げれば、地元よりも少しだけ狭い暗闇が広がっていた。街の明かりで星も見えない。そんな風にしていたら、見上げた空が「君」と繋がっているというような、どこかで聞いた歌のフレーズが頭をよぎった。いや、あれは空じゃなく風だったか。頭の中でその歌を歌おうとしたけれど、部分的にしか思い出せず、同じ部分だけを何度もなぞった。

鼻歌交じりで自分の部屋に辿り着くと、荷物の片付けもそこそこにバスルームへ向かう。関口さんにつけてもらったものとは異なるピアスを外し、シャワーを浴びる。浴槽もあるにはあるが、シャワーばかりでもう随分使っていない。

全身を洗い終えると、水分を拭き取り、着替えを済ませ、鏡に向かう。肌の手入れをしながら、何もついていない耳朶に触れた。そこにあるのは関口さんがつけた傷痕。それに異常がないことを確認してから、髪を乾かす。そうしながら、先日の食事会での鳥居さんの言葉を思い出していた。

その場にいた他の人たちは、満腹感とアルコールのせいで居眠りを始め、唯一素面だった私は部屋の片づけをしていた。そんな中、大量の缶ビールを空にした鳥居さんは、かかってきた電話の相手と長々と話していた。遠距離恋愛中の彼氏からの電話だったのだそうだ。

遠距離なんてしんどくないのかと尋ねてみたら、鳥居さんは──そら、しんどいわ、と笑って、笑いながらさらに話を続けた。

「それでもね、今現在、あいつにそう見られたい私がいて、私もあいつをそういう相手として見ているよ、てことをわかっててほしいからね。恋人って形にこだわりたいんだよ。ま、どちらかがそれを煩わしく思い始めれば、終わるんでしょうよ」

決して甘くはない予測を語る鳥居さんがずっと笑っているから、怖くないのかと尋ねた。すると鳥居さんは可笑しそうに、あははと声を上げて笑った。

「怖いからしんどいんだよ」

──でもさ、と続ける鳥居さんの頬がそれまでとは少し違う緩み方をしたのを、私は見ていた。

「どれだけしんどかろうが、声を聞いたらさ、やっぱり、うん。まあね」

照れて笑う鳥居さんは、ぐいとビールの缶を煽り、言葉を濁して、それから──

「それが恋ってもんでしょう?」

最後にそう言って、また笑った。その後鳥居さんは、「ああ恥ずかしい」を連呼していたけれど、私は笑ってそんな風に言える鳥居さんを、とても尊敬し、同じだけ羨ましく思った。

髪を乾かし終えると、ドライヤーを片付け、歯を磨き、テーブルに向かった。そこに置いたままになっていた、関口さんからの手紙を手に取る。届いてから何度読み返しただろう。近況を伝える文面を読んでいると、関口さんの笑顔が浮かんでくる。記憶の中の彼女はいつまで経っても鮮明で、憧れたあの時のままの笑顔を私に向ける。

それは棚の中、アルバムに収められている写真と同じもの。つまりは過去の彼女でしかない。

今現在の彼女はどんな風に笑うだろうか。
せめて。せめて声が、聞きたい。

卒業する。思い出にする。そんな風に思ったこともあった。けれど少しもできていない。もう、いい。もうそんなこと、諦めよう。

鞄から昼間に買った便箋を取り出し、ペンを握る。

自分の中で関口さんが薄れてしまうことを危惧するよりも、関口さんの中で私が薄れていくのを感じ取ってしまうことを恐れるよりも、そんなことで立ち止まるより他に、することがある。したいことがある。

それが恋ってもんでしょう。

思いのままにペンを走らせる。学校のこと。アルバイトのこと。ピアスのこと。夏休みの予定と会いたいというようなこと。そして最後に自分のメールアドレスと、電話番号。

封筒にそれを収め、切手を貼って、部屋の明かりを消した。布団に潜り込むと、ひとつ深呼吸をしてから、そっと目を閉じる。

明日、一番に手紙を出そう。
手紙を読んだ関口さんは、メールをくれるだろうか。それとも電話?
また手紙だったら面白い。
どれもないなんてことは考えないようにしよう。

関口さん、私はまだ、あなたが好きです。

そうして目を閉じたままあれこれと考えを巡らし、指先で耳朶を撫でているうちに、私はまどろみの中に沈み始め、それでようやく、自分が疲れていたことを思い出したのだった。

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