印刻

 初めて学校以外の場所で会った藤本さんは挨拶もそこそこに、私の耳元をしげしげと眺めていた。

「関口さん、ピアス開けてたんだ」

マグネットじゃないよね──そう言って覗き込む。不意に近づいた距離に私は思わず仰け反り、手でその部分を隠してしまう。

「あ、うん。この前、開けたんだ」

ファーストピアスとして選んだそれは衛生面や機能重視で選んだものだ。正直、あまり可愛らしいものではないから、あまりじっくりと見ないで欲しい。

「いいなあ。私も開けようかな」

すっと距離が遠のく。それでもまだ私の耳元に視線を残したまま、彼女は自身の耳朶を指で弄んでいた。

「ねえ、痛かった?」
「いや、それほどでもなかったよ」
「どうやって開けたの?」
「自分でそれ用の道具を使ってやったんだけど」

話している間も彼女の視線が絡み付いてきて、手で触れている耳が熱くなってくる。余計に隠す手を耳から離せない。そんなにじっくりと見ないで欲しい。

「でもやっぱり病院でやってもらうのが一番安心だよ。少しお金は掛かるけど」

最後にそう付け足したものの、藤本さんはふうんと言ったきり黙ってしまった。思案顔で私の手で隠した耳を見て、自分の耳朶をさする。そして──

「ねえ、関口さん。私のも開けてくれない?」

真っ直ぐに私の目を見つめて彼女はそう言った。


本当はもう会わないだろうと思っていた。お互い好意を寄せていることは伝えたものの、そこから先となるとどうにもならないことだと諦めていたから。確認しあったその感情を温め合うには、これから先の二人に横たわる距離は遠すぎたし、新たな生活への期待は眩しすぎた。
それはおそらく藤本さんも同じだろう。現に連絡先すら交換していない。

そうして友人たちと卒業旅行に行ったり、進学準備に追われたりしているうちに、時間は過ぎていく。きっとこのまま知らないうちに彼女は引っ越して行き、新しい生活に勤しむようになるのだろうとぼんやりと思っていた。

思っていたのだが──卒業式後に二人で撮った写真が私の手元にはあった。それを「送る」と約束していたから、卒業者名簿で藤本さんの名前を探して、封筒にその住所を書き付けていた。そうしたら、不意にそこに送ったところできちんと藤本さんに届くのか不安になった。

そこに送ったところで、彼女はもういないのではないか。おそらく彼女の両親が転送するか、帰省したときにでも渡してくれるだろうとも思ったが、藤本さんがこの写真を見るのがそのときでは遅いような、そんな気がした。それならば送らないほうがましだ。だから、彼女がまだその場所にいるのか確かめるために、住所の横に記されている電話番号に掛けてみることにしたのだった。

そうすると、彼女はちゃんとそこにいた。ほっとした私は写真のことを切り出すと、「送るね」と言うはずが、何故か「持っていっても大丈夫?」などと口走り、藤本さんが「それじゃあ、せっかくだから遊ばない?」と言い出したものだから、ほいほい出向いたと、そういうわけだ。


「上手くできるかわからないよ?」

私が藤本さんの視線から逃げて言えば、

「でも、関口さんの上手にできてる」

藤本さんはまた私の耳を見つめて笑いかける。見ないで欲しい。
私は藤本さんの視線から逃げたくて、だから──わかった、とそう言った。

ピアッサーを選ぶのも、その後穴が完成したらどんなのを着けたいか話すのもとても楽しかった。楽しい時は飛ぶように過ぎ去り、その間はこれが最後になるのかもしれないなんてことは頭に浮かびもしなかった。

けれど、藤本さんの家に行き、彼女の部屋に入ると、嫌が応にも思い知らされた。
部屋はところどころ穴が開いたように物が無くなり、隅にはダンボールが積まれている。ちょっと散らかってて、とダンボールを更に隅に追いやる藤本さんの背中に、気にしないでと言ってから、尋ねた。

「引越し、いつするの?」

一瞬、片付ける手が止まった気がした。が、気のせいかもしれない。

「再来週」

そう投げるように言ってから、藤本さんは振り返る。それから「お茶持って来るね」と笑って部屋を出て行った。

藤本さんの部屋は必要最小限の家具しか置かれていなかった。引越しのためにそうなったのかとも思ったが、部屋に敷かれているカーペットには何か物が置かれていたような形跡は見出せなかったから、おそらく元からそうなのだ。無駄なく機能的に配置された家具の中で、部屋の隅のダンボールだけが異質だった。

「緑茶しかなかったや。ごめん」

申し訳なさそうに入ってきた藤本さんの持つお盆には湯飲みが二つ、湯気を立てている。

「私、緑茶好きだよ」
「そう? よかった」

部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルにそれらを置くと、藤本さんはようやく腰を落ち着ける。その向かいに座りなおすと、私は早速一口すすった。少し舌をやけどした。それから当初の目的である、卒業式の写真を手渡した。

「本当は郵送しようかと思ったんだけど」

写真が住所まで書いてある封筒に入っていることの言い訳をする。わざわざ出向く必要性なんてないことをありありと示しているから決まりが悪い。藤本さんはそんな私の言い訳も気に留めず、早速封筒から取り出し始めて、私は慌ててそれを止める。

「待って! 今見ないで! 私の写りが酷いから!」
「なんで? 今見ても後から見ても一緒でしょ? ていうか、そうして欲しいから郵送じゃなくて持ってきたんじゃないの?」

藤本さんはにやにやと意地悪く笑う。そして私の静止の手をかいくぐり、写真をまじまじと見始めた。

「どSだ! この人どSだわ!」

顔を手で覆って喚く私をよそに、藤本さんは写真の感想なんか言い始める。

「大丈夫、全然酷くなんてないよ。ちょっと顔が赤くて目が泳いでいるだけで、可愛く写ってるよ」
「フォローが痛いよ、藤本さん! もうやめて!」

ひいひい頭を掻き毟る私に藤本さんが「ごめん、もうしまうから」と言ったのはひとしきり笑い転げた後だった。写真を封筒に入れ直し、机の引き出しを開けてから思い直したように閉めた。それから周りを見渡した後、結局机の上に置いた。それを眺めているうちに、尖らせた私の唇も元に戻っていった。

「ねえ、引越し先の住所訊いてもいいかな? 手紙出すから」

ふうふうと息を湯飲みに吹きかけながら切り出すと、湯気の向こうで藤本さんが首を傾げるところが見えた。

「いいけど、メールアドレスじゃなくて?」
「うん、住所」

──ちょっと待ってて。
藤本さんは机の引き出しから取り出した紙にペンを走らせると、それを私に差し出した。その目がなんだか寂しそうにしている気がして、私は訊かれもしないのに言い訳をする。

「その、携帯だとさ、いつも持ち歩くじゃない? そうするといつも期待して、その分いつもがっかりしちゃうじゃない? 私、そこまでMじゃないですから」

言ってるそばからなんだか恥ずかしくなってきて、最後にふざけてみる。藤本さんは目をしばたかせた後、ふふっと笑った。

「関口さん、意外と古風だよね。手紙待ってるよ。ちゃんと返事書くからね」
「うん。えっとさ、あれ、ほら、ピアス」

ふざけたにもかかわらず、普通に返されたらどうしようもなく恥ずかしさが増した。誤魔化すために話を変えようと試みたが、物凄くしどろもどろになってしまった。余計に滑稽だ。けれど藤本さんは笑いながらも話題の転換に協力してくれた。

「そうだった。まずはどうすればいい?」
「よっぽど大丈夫らしいけど、一応冷やして感覚を鈍らせておいて、それから耳をしっかり消毒して。おっと、私も手を洗ってこなくちゃ」

洗面所の場所を教えてもらい、手を入念に洗う。
この手が藤本さんの耳に触れるのか。傷をつけるのか。
僅かに手が震える。

部屋に戻ると藤本さんは髪を束ねていた。耳があらわになっている。複雑に入り組んだ軟骨の形はくっきりとしていて、その下には薄く小さな耳朶が。

「ハンドソープとかわかった?」

振り向いた藤本さんはそう言った後、耳を手で触れる。耳が、隠れる。それで自分がそこに見入っていたことに気づいた。慌てて目をそらす。

「あ、うん。それじゃあ、やりますか」

一通りの準備を整え、いよいよその時が訪れる。正座する藤本さんの横で私は立ち膝になり、その耳に触れる。彼女は少し身じろぐ。

「くすぐったい」

くすくす笑う。

「本当に私でいいの?」
「今更だよ。思い切ってやってください」

藤本さんは笑ったが、私の緊張ったらなかった。もしかしたらこの先ずっと残る傷痕を私がつけるのだ。震えて間違わないように手を何度も握っては開く。息を大きく吸って、細く吐き出す。そうしてからようやく、無機質な器具で彼女の耳朶を挟み込んだ。場所を再度念入りに確認し、声を掛ける。

「じゃあ、いくよ」
「うん」

重く圧し掛かる緊張感と、ほんの僅かな──興奮。
器具を握る手に力を込めると、かちりと音がして、藤本さんの肩に力が入るのがわかった。そっと耳から器具を除けると、さっきまでまっさらだった耳朶に小さな金属が自己主張していた。それは私がつけたのだ。

「大丈夫? 痛くなかった?」
「大丈夫だよ」

笑って藤本さんが言うから、同じ手順を踏んで反対側にも痕をつけた。

それが終わると藤本さんは嬉しそうに手鏡を覗いていた。そんな彼女に、私は使い終わった器具を片付けながら買い物の際にも言ったことを繰り返した。

「これから一ヶ月くらいは毎日消毒するんだって。お風呂上りがいいらしいよ」
「うん、わかった」

これから一ヶ月。藤本さんは毎日一度は見入るのだ。私のつけた傷痕を。
その時彼女はその傷痕をつけた私のことを思い出すだろうか。

これから新しい生活が始まり、藤本さんも新たな環境に馴染もうと忙しくなるだろう。その中で私の記憶が薄れていってしまうとしても、毎日一度、その傷を見るときに、傷をつけた人物のことを思い返してくれたなら。

そうだったらいい。
それがたったひと月のことだとしても。

「関口さん」

手鏡をテーブルに置き、藤本さんは隣に座る私に向き直る。耳元に光が灯る。

「ありがとう」

そう言って藤本さんが笑うから、私も笑う。

「どういたしまして」

そして彼女の視線はまた私の耳元へ。伸びる白い指。それがすっと私の耳朶を撫でる。

「私も関口さんの開けたかったかも」

耳に熱が集まる。そんなに、見ないで欲しい。

「さすがどS」

ふざけて誤魔化すと、藤本さんは声を出して笑った。指が離れる。

「たぶん私は消毒するたびに今日のことを思い出すんだよ。もしかしたら消毒が必要なくなってからも、この先ピアスを着けるたびに。関口さんにもそういうのを残したかったって少し思った。けど、関口さんはそんなこと思い出したりしないか」

──あれだね。私、重いね。
最後にそう付け加えると、眉を八の字にして藤本さんは笑う。

「藤本さんは」

酷く口の中が乾いて唾を飲む。──何? と髪を束ねていたゴムを外して藤本さんが疑問の声を上げる。細くて柔らかそうな髪が揺れた。

「私が恥ずかしくて言えないようなことをさらっと言うよね」
「言ってる最中から反省してたんだから、もう言わないでよ」

照れているような困っているような、そんな表情で藤本さんは笑う。そう言う意味で言ったんじゃないのに。

「そうじゃなくてさ」

──何? 首を傾げる。

「からかうとか、そんなんじゃなくて──」

首を傾げたまま藤本さんは私をじっと見つめる。そんなに、見ないで欲しい。

「恥ずかしくて言えなかったけど、私も、その、同じこと思ったってこと」

傾げた首もそのままに、藤本さんは私を見つめ続ける。そんなに見られたら、穴が開いてしまう。

耐え切れず、テーブルの上の使用済みの器具をいじくる。プラスチックが無機質な音を出す。そうしていると、横から私のではない手が伸びてきた。五つある指のうち一番小さなもののその先が、プラスチックを弄ぶ私の人差し指に触れた。

「ねえ、関口さん」

ぴくりと動くだけで離れてしまいそうな接触。離れてしまわないように動きを止める。

「関口さんのピアスホールが完成するまででいいから──」

近付く。藤本さんの体が、顔が──唇が。私の耳に。

「私のこと、思い出してね」

触れて、離れた。

私は身動きひとつとれずに、全ての感覚を耳に集中していた。
熱い。耳が、火照っている。

彼女の触れたそこだけがまるで焼印でも押し付けられたかのようだった。

藤本さんの体が離れていくと同時に少しずつ感覚は全身に分散していく。僅かな接触を保っていた指が離れて行くのを感じ取り、咄嗟に握って引き止める。

けれど私は何も言葉が出てこなかった。藤本さんの華奢な手を握り締めて、私の手の中で窮屈そうにしているその手指を見て、何度も、何度も頷いていただけだった。

この先の二人の間に横たわる距離はあまりにも遠く、待ち受ける新しい生活はあまりにも眩しい。絶対忘れないとは言えなかった。けれど、二人の耳に光る金属は、私たちの今を確実にその身に刻み込んでいるのだと確信していた。

これは、私が藤本さんに焦がれたことの、藤本さんが私を求めたことを示す──刻印なのだ。



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