憧憬

 廊下につながるドアから入って左手。一番奥から三番目の列の窓際。そこが図書室でのわたしの特等席だ。

 この席に座るようになったのは単なる気まぐれで、特に意味はなかった。人の出入りのあるところから離れていた方がいいなというだけのこと。座り続けているのは、なんとなくとしか言いようがない。

 ただ、一つだけ。この席での楽しみがある。左手にある窓から見える景色だ。

 あらゆる天候にも負けず駆けずり回る運動部。
ジュース片手にだるそうに語り合う男子。
笑いながら雑談する女子の群れ。

 勉強の合間に眺める額縁の中の世界はなかなか興味深かった。

 その中でも一番のお気に入りは、同学年のいつも楽しそうに騒いでいる子達だ。
友人の中には煩いと煙たがる人もいたが、私は彼女達の無邪気にはしゃぐ様子を見るのが好きだ。その中に混じりたいとは思わないけれど、見ているのは楽しい。彼女達がわっと笑えば私もふふと笑う。そうすると少し気が晴れて、また勉強に集中することができた。

 そんな彼女達の中の一人が図書室にやって来たのは、窓から差し込む日差しを受けた左腕がすっかり黒くなった頃だった。輪の中で一番楽しそうに笑う子だった。
珍しいこともあるものだと視界の端にその人を確認しながら私は机に向かった。その日だけのことかと思っていたら、毎日来るようになり、気分転換に眺める対象が一つ増えた。

 いつも大勢の中で笑っている彼女はここには一人で来る。真ん中辺りの席で参考書を繰り、ペンを走らせる。その真剣な表情はいつも額縁の向こうに見ていたものとは異なった。眉間にしわを寄せていたと思えば、急にふっと表情が和らぐ。真剣なはずなのにやたら表情豊かな彼女に、ふふと笑うと少し気持ちが晴れた。

 日を追うごとに過ごしやすくなり、片側だけ日焼けした私の腕も長袖の制服に隠されるようになった頃のこと。文化祭が終わったばかりで皆その余韻に浮かれているのか、図書室にいたのは私と彼女だけだった。

 いつもよりも静かな室内には、私と彼女がペンを走らせる音だけがカリカリと響いていた。私達以外に誰もいない室内はいつもよりも広々としているはずなのに、静まり返った中では互いの息遣いまでもが感じ取れそうで、息をしづらい。それにたまに窓の外を眺める彼女の動きが気になって、ちっとも勉強に集中できなかった。
やけに暑く息苦しい。そっと視線を窓の外に向けると、制服の上着を脱いで手に持っている生徒がちらほらと目に入った。ああ、そうか。今日は随分と日差しが強い。それでか。私は窓を開けることにした。

 開け放たれた窓から吹き込む風は秋を感じさせて、心地いい。その風で体の熱を冷まし、人心地付いたところで席に戻ろうとすると、視線を感じた。振り向くと彼女の目がこちらに向けられていた。

「あ、ごめんなさい。少し暑かったから開けたんだけど、嫌だった?」
「いえ、気にならないんで別に構いませんよ」

 遠くで響くばかりだったその声が自分に向けられたのは初めてのことで、それだけで会話を終わらせてしまうのが惜しくなる。もう少し話してみたい。

「関口さんはいつも1人で来るんですね」

 彼女の名前は以前からあちこちで耳にしていた。手元に視線を戻しかけていた彼女は、名前を呼ばれて顔を上げる。

「え? ああ、はい。友達はみんな塾に通ってるんで。私の事知ってるんですか?」

 ああ、やはり彼女は私のことなど知らないのだ。思わず自嘲の笑みが漏れる。

「ほら、関口さん達目立つから」
「あはは。いつもうるさくてすみません」

 ばつが悪そうに笑うその仕草に自然と口元が緩んでしまう。

「ううん。楽しそうでいいなあと思ってただけだから」
「そう?」
「うん。でも、関口さんって図書室とは無縁の人だとは思ってましたね」
「確かに今までは縁遠かったですけど、 受験生だし、家よりもこっちの方が集中できるんで」
「ああ、私もそうです」

 そう言ったところで彼女の笑みが苦笑めいていることに気付いた。せっかく集中していたところを私が中断させてしまっている。

「あ、すみません。邪魔しちゃって」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないから」
「ううん。ごめんね。急に話しかけて」

 慌てて会話を打ち切って席に戻ろうとすると彼女に呼び止められた。

「あ、ねえ。名前訊いてもいい?」
「ああ、言ってなかったね。藤本です。よろしく、関口さん」
「よろしく。藤本さん」

 はにかんだ笑顔とともに発せられた自分の姓。初めて自分の名前を呼ばれたことが、こんなにも嬉しく感じる自分が酷く可笑しかった。

 それ以来、関口さんと挨拶程度の会話をするようになった。
それは本当に軽い話題ばかりで内容なんてないようなものだったが、それでも友人とは違った感性に触れる事はとても楽しかった。
関口さんと話すようになって、また一つ気分転換の方法が増え、受験勉強に身が入るようになった気がした。とはいえ、たまに廊下で見かけても互いの友人に遠慮して話しかけることはしない。目が合ったときにする目礼が唯一の交流だ。彼女の笑顔が真っ直ぐに私に向けられるのは、図書室の中でだけ。それは秘密を共有しているような、くすぐったい気持ちにさせた。

 窓際の私と、真ん中辺りの関口さん。毎日人が入れ替わる図書室の中で、私達の間だけは変わらぬ風景で、そこだけ時間が止まっているように思えた。しかし現実は刻々と時を刻んでいて、気が付けば私の受験日は明日に控えていた。明日からはここに来る理由はなくなる。

 図書室にいるのは私と関口さんだけ。他学年は授業中。三年生もあまり学校に来ていないとはいえ、二人きりになるのは初めて話したあの日以来だった。二人がペンを走らせる音が響くだけの室内では、互いの息遣いさえ感じ取れてしまいそうだ。息苦しい。

 関口さんの方を眺める。真剣に取り組む姿。この姿にいつも励まされ、叱咤されてきた。

 それも今日で終わり。

 もう一度手元に視線を戻し集中しようとする。今日に限ってどうしてもできない。また関口さんを見る。

 同じ場所で共に受験に備える「同志」。私が関口さんに抱いているのはそんな感覚なのだ。そのはずだ。それなのに何故今日に限って、彼女にこちらを向いて欲しいとこんなにも願うのか。その笑顔を私にだけ向けてほしいと願うのか。

 時計を見ると、そろそろ明日の準備の為に帰らなくてはならない時間だ。

 どうしたら、こちらを向いてくれる?

 初めて言葉を交わしたあの時の事が頭をよぎる。
窓を開けなくてはならない理由なんてない。だけど、構わない。

 席を立って窓を開け放つ。あの時とは比べようもない冷たい風が時間が確実に流れていたことを思い知らせた。身震いして、関口さんに向き直る。

 冷たすぎる風に関口さんがこちらへ視線を向けた。ああ、やっとこちらを向いてくれた。

「やっぱり窓開けると寒いね」

 傍から見れば意味のない自分の行動を誤魔化すように笑ってそう言うと、彼女は怪訝そうな顔で笑った。

「当たり前だよ。今、何月だと思ってんの」

 「寒い寒い」と窓を閉め、もう一度振り返る。関口さんはあの時のことを覚えているのだろうか。彼女の表情を窺うもそれはわからない。それでもこちらを向いてくれた事に満足する。

「何? どうしたの?」

 彼女の質問には答えずに言いそびれていたことを伝えることにした。

「私、明日第1志望の受験なんだよね」
「え、そうなの? 頑張ってね」

 なんの感慨もなく励ましの言葉を返された。こんなものだろう。

「うん、頑張る。関口さんはいつ?」
「私は来週だね」
「そうか。頑張ってね」
「うん。ありがとう。頑張るよ」

 差し障りのないエールの交換。思えば、互いの志望校の話すらしていなかったのだ。なんと薄っぺらな関係だったのだろう。

「私、たぶん今日でここに来るの最後だと思う」

 それでも、私は関口さんにお礼を言わなければならない。出来うる限り後腐れのない笑顔を向けよう。
反応のない関口さんに構わず謝辞を述べる。

「そんなに話したりしたわけじゃないけど、関口さんを見てるとこっちも負けてられないって頑張れたよ。ありがとう」

 関口さんは少しの間を置いてから小さく「そっか」と呟いたきり黙りこくってしまった。

 私はどんな答えを期待していたのだろう。
「同志」だなんて私一人の思い込みなのに。大して仲良くしていたわけでもない知人にこんなことを言われて、彼女は戸惑っているのではないか。
私は上手く笑えているだろうか。

 後に続く言葉を待ったが、それより先に終業のチャイムが鳴った。

──時間切れ。

 諦めて机を片付け、帰り支度をする。
ぼやけていく視界とは裏腹に脳裏には関口さんの姿がはっきりと映し出される。

 楽しそうに笑って話す姿。
眉間に皺を寄せて考え込み、問題が解けた瞬間に一気に和らぐ表情。
たまに交わし合った視線。

 それらにどれだけ励まされただろう。どれだけ心躍らせただろう。
関口さんにとって私は図書室で顔を合わせるだけの知人であっても、私にとって関口さんはそれ以上の存在だった。それは紛れもない事実だ。
最後にそれを告げることを、彼女は、関口さんは許してくれるだろうか。

 まとめた荷物を手に、ぼんやりとこちらを見ている関口さんに歩み寄る。

 涙は見せるな。
笑え。

「私、今日はもう帰るけど、関口さんも入試頑張ってね。関口さんと話せるようになれてよかったよ。ありがとう。」

 そして、去り際に一言呟く。
関口さんに聞こえても聞こえなくても構わなかった。


「もしかしたら私、関口さんのこと少し好きだったのかも」


そのまま関口さんの反応も確かめずに足早に図書室を後にする。
なんとか涙を堪えられたことにホッとしていると、後ろからバタバタと大きな音がした。それがなんなのか確かめる間もなく背中から浴びせられる声。

「藤本さん! 私も藤本さんのおかげで頑張れたよ! 話せてよかった! ありがとう! 明日頑張って!」

 振り返ると関口さんが廊下の向こうに仁王立ちしていた。
滲んで見えづらくなっていくその姿に手を振る。こらえていたものが堰を切って頬を伝う。私にいつも笑顔を向けてくれた彼女だから、彼女に見せるのは笑顔だけで良い。だから関口さんから顔を隠してその場を後にした。

 これは単なる憧れに過ぎないのかもしれない。
関口さんと過ごしたあの空間が好きだっただけなのかもしれない。
正体を確かめもせず、曖昧なまま口にした私の一方的な好意。それを拒絶することなく温かい言葉をくれた関口さんに、私はまた憧れた。



inserted by FC2 system